文学には、純文学と大衆文学があります。
大衆文学は読んだことがあるけれど、純文学はよくわからない、読んだことがない方も多いのではないでしょうか。
あるいは、大衆文学自体も具体的にどれが当てはまるのかわからない人も多いかもしれませんね。
この記事では純文学と大衆文学の違いについて解説します。
違いが気になる方はご覧ください。
目次
純文学は、芸術性の高い文学
純文学は、芸術性が高い文学です。しかしそもそも芸術性とは何か、分かりませんよね。
ところがこの「芸術性」という言葉は、人によって意味合いが変わってくるものなのです。
つまり具体的にどういったものが芸術性の高い文学に当てはまるかは、人それぞれとなります。
「これは芸術だ」と読んだ人が思えば、それは純文学になります。
言い方を変えれば、純文学とされる作品を読んでもあなたがそれを大衆文学だと思ったら、あなたにとっては大衆文学ですね。
純文学と呼ばれる作品の傾向については、大衆文学との違いの項目で詳しく解説します。
ちなみに純文学系の作家が通俗小説を書くこともありますし、反対もあります。
この作者はこの文学のみを書く!ということはないですね。
大衆文学は大衆向けに書かれた文学
大衆文学は、その名の通り大衆向けの文学です。
誰もが楽しめるような小説は、大衆文学ですね。
ベストセラーとして読まれる作品は基本的に大衆文学と考えて良いでしょう。
起承転結がはっきりしていてワクワクしながら読めるのが大衆文学です。
基本的に大衆文学の方が読むハードルが低いですが、だからと言って大衆文学が純文学より下になるわけではありません。
純文学はえらいイメージがあるかもしれませんが、それは誤解です。
大衆文学には大衆文学の良さがありますし、純文学には純文学の魅力があります。
優劣はなく、並び立つものと考えた方が良いでしょう。
純文学と大衆文学の違い
ここからは、純文学と大衆文学の違いを解説します。
気になる方はチェックしてみて下さいね。
純文学は大衆に媚びていない
純文学と大衆文学の大きな違いは、純文学は大衆に媚びずに自分の書きたいことをまとめていて、大衆文学は人々を楽しませることを目的に書かれている傾向にあることです。
どちらかといえば大衆文学は何も考えずに楽しめますが、純文学は己の強い意志のもとに書かれていて、ちょっと理解するのが難しいところもありますね。
あくまで傾向の話なので必ずしも当てはまるわけではありませんが、純文学と大衆文学の大きな違いはここでしょう。
大衆文学は人々を楽しませる=読んでもらう、つまりは売るために存在しますが、純文学は自分が書きたいのが何よりも優先されています。
作家の書きたさ優先であるために、大衆文学では絶対に作れないような話も展開できるのが純文学の魅力です。
純文学は現代ではあまり見かけない、古いイメージがある
大衆文学は現代も盛んですが、純文学はそれほど現代において盛り上がっていませんね。
書店で文庫や単行本として売られているような作品は基本的に売ってなんぼの大衆文学です。
純文学といえば中学〜高校の現代国語で見かける、明治や大正時代に執筆された古い小説のイメージが強いのではないでしょうか。
もちろんその時代から大衆文学もあるわけですが、純文学=古い、大衆文学=新しい傾向はやはりありますね。
純文学は文芸誌などでよく見かけます。
現代の純文学を探している人はチェックしてみてください。
純文学は王道からかけ離れている
大衆文学は人々にウケる用に作られているため、どこか安心感があります。
驚きなどは当然あるのですが、それでも純文学ほどではないでしょう。
純文学は、本来の小説の王道から外れて独特の作りになっているものです。
だからこそ難解なイメージも強くなります。
読んでいる最中に全く油断ならないのが純文学です。それが魅力の一つですね。
純文学はどちらかというと退屈
大衆文学は楽しませること前提なので、基本的に読んでいて飽きない作りです。
しかし純文学は、物語が全然動かないことも普通にあって結構退屈なこともあります。
ただし人によって純文学の諸々の作品への感じ方は変わってきますので、退屈だという評判を聞いて読んだら強い感銘を受けることだってたくさんありますよ。
純文学は考え、感じるものであり深い
大衆文学は普通に読んでいればOKですが、純文学は読みながらその小説が何を言いたいのか読みながらじっくり考えたり、文章の裏側にある思いを読み取ったりすることでこそ楽しめます。
一見非常に退屈で何の面白さもない作品でも、よく読むと裏のメッセージがわかることがありますね。
もちろん大衆文学にも、こういった作品はたくさんあります。
あくまで傾向として、純文学の方が「深い」ですね。
そして深くない作品が劣っていて悪いわけでもありません。ここは気をつけましょう。